第2回の学習会も大盛況でした。

 

西尾歴史マイスター 第2回学習会

 

税理士の伴 洋太郎(ばん ようたろう)@ban_tax240です。

 

西尾歴史マイスター

 

鶴城地区は、僕の通っていた中学校区でもあります。

会場は中央ふれあいセンター

 

学習会は、西尾歴史公園の近くにある、中央ふれあいセンターで行われました。

 

西尾歴史マイスター認定試験

 

ぎっしり満席。

皆さん勉強熱心でらっしゃる。

鶴城地区について学んだこと

 

地名の由来

 

「鶴城」の地名は、西尾城の別名が鶴城と呼ばれていたことに由来するそうです。

 

なお、同じ愛知県西三河地方では

 

  • 刈谷市の刈谷城は「亀城」
  • 岡崎市の岡崎城は「龍城」

 

と呼ばれていたとのこと。

 

格の違いを見せつける岡崎さん(´・ω・`)

 

史跡 八王子貝塚

 

愛知県の指定文化財である、縄文時代後期の貝塚です。

ここからは、多量の土器や獣骨、人骨が発掘されいます。

 

特に土器は、この時代の東海地方の文化様相を示す基準資料として「八王子式土器」と呼ばれているんですって。

縄文をわざわざ磨り消してしまう手法が特徴的なんだとか。

 

 

現地はこんなかんじで、大量の貝殻が地中に埋もれています。

八王子貝塚

 

西尾茶発展の基礎となった 紅樹院

 

西尾市は、抹茶の原料であるてん茶の一大産地です。

 

その発展に大きく寄与したのが、紅樹院の34代目住職 足立順道(あだちじゅんどう 1840−1887)。

 

彼は、寺周辺の気候が宇治の気候とよく似ていることから、宇治から茶を持ち込み、寺の畑にまいたそうです。

また宇治の技術者を雇い、自らも汗を流して、改良・発展に努めたといいます。

 

茶栽培は寺のある西尾市西野町一帯に引き継がれて、日本有数の産地に発展しました。

 

境内には、その持ち込んだ茶樹の孫にあたるお茶の木が植えられています。

紅樹院

 

吉良氏と実相寺

 

西尾市ゆかりの歴史上の人物で、もっとも有名な人。

それは元禄赤穂事件(忠臣蔵)の敵役、吉良上野介義央でしょう。

 

吉良上野介は、西尾でおこった「吉良氏」の末裔にあたります。

 

吉良氏のはじまり、おわり

 

承久の乱(1221年 朝廷と武家の戦い)後、足利義氏(足利家3代目当主)が、三河国の守護になり、吉良荘(西尾市にあった荘園)の地頭を兼ねました。

 

義氏は、長男長氏に西条城(西尾市錦城町)、三男吉継に東条城(西尾市吉良町)を与え、吉良荘を東西から守る体制をとりました。

彼らは室町時代頃になると、荘園名に由来して吉良姓を名乗るようになったのです。

 

その後、今川義元の三河侵攻(1560年)や、三河一向一揆(1563年 吉良氏は一揆側につき、徳川家康と戦い破れた)により、340年続いた吉良氏は途絶えました。

 

 

吉良氏と関わり深い、実相寺

 

鶴城地区にある実相寺は、吉良氏の菩提寺として長氏の子、満氏が文永8年(1271年)に建立したものです。

以後、吉良氏を保護者にもつ有力な禅宗寺院として繁栄し、西尾の中世文化代表する史跡となっています。

 

釈迦堂へと続く参道の両脇には、たくさんの黒松が植えられていて素敵です。

実相寺

 

福地地区について学んだこと

 

地名の由来

 

「実り豊かな地」=「ふくよかな大地」=「福地」となることを願ってつけられたと言われています。

 

この地区は、川によってもたらされた肥沃で水はけの土壌に恵まれていることから、造園業・植木業が盛んです。

綿の栽培発祥の地 天竹神社

 

崑崙人伝説

 

福地地区の天竹町には、つぎのような伝説がのこっています

 

平安時代はじめの799年7月、言葉の通じない外国人が流れ着きました。

地区に住む唐(中国)の人によれば、「その人は崑崙(東南アジア)人だ。」といいます。。

若者はこの地で生活をはじめ、言葉を覚えると、村人に「自分は天竺(今のインド)から来た。」と伝えました。

 

天竹神社の崑崙人

 

『ふるさと教本 西尾』P.22に載っていた、崑崙人のイメージです。

イカした服着てんじゃ〜ん。

 

この出来事から、地区の名が「天竺」となり、「天竹」へ転じたと言われています。

 

 

綿栽培のおこり

 

その崑崙人の持ち物の中にあったモノこそが、綿のタネ

 

綿は三河の地で栽培され(三河木綿)、その後、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、太宰府など、全国各地で植えられました。

そこで、三河が綿栽培発祥の地と言われるようになったそう。

 

天竹神社では、漂着した若者を綿の神、新波陀神として祀っています。

「新波陀(にいはた)」は綿を意味し、チャム語の「ニーパハ(Ni Pah これは綿だの意)」に、その読みが酷似しています。

 

 

甚大な被害をもたらした戦時中の災害 三河地震

 

1945年1月13日の午前3時半頃、三河湾を震源とする大地震がおきました。

 

三河地震です。

 

最大震度7という大きな揺れにより、亡くなった方は1,180名、行方不明者は1,126名を数えました。

地盤の緩い福地地区は被害も大きく、234名もの方が命を落としたそうです。

 

1日に40〜50回の余震が続いたため、家に戻れない日が3ヶ月から半年続いたといいます。

 

地震は太平洋戦争の終戦間際に起こりました。

そのため政府当局は、国民の戦意低下や軍需工場の被害を隠すため、報道管制を敷くほか、物資も戦争優先であったといいます。

 

本格的な復興が始まったのは、戦後になってからでした。

 

西尾市内には、地震によって生じた高低がいくつものこっています。

 

まとめ

 

西尾歴史マイスターの第2回学習会で学んだことをお伝えしました。

 

地元の歴史を学ぶと、近所のお寺や石碑にも、俄然興味が湧いてきます。

この地で暮らすことを、より楽しめるようになりました。

 

 

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